ジム・ジャームッシュの新作『リミッツ・オブ・コントロール』を観てきたので感想をば。


この世界に同じものは厳密には存在しない。

ありとあらゆるものはコピーであると同時にオリジナルでもあり、ありとあらゆる動きは同じ軌道を描いているつもりでも、少しずつずれている。

さらに、例えば同じ色を見ていても、個々人の受け取り方は違う。

自分の思う「赤」と、他人の思う「赤」は違う。

世界の真実の姿とは、このように足元が非常に不確かで、まるでめまいのように曖昧なものである。

しかし誰もがこんな簡単な事実を忘れて、昨日も今日も明日も世界は同じ顔だと思っている。

それは今現在われわれが生きている資本主義社会というルールのためである。

資本主義社会という大きなものを動かすために、合理主義という名の裁断機は、本来ばらばらなはずの世界を「同じ」形に加工する。

なぜなら違う形の歯車では、互いに過度の摩擦を起こし(あるいはそもそも触れることすらない)うまく機能しないからだ。

そうしてできた均一なコースの中を、これまた同じように均一に加工された私たちは9時から17時まで走らされる。

そのうち「あれ、なんだか、いつも同じところ走ってないか」なんていうことを思い浮かべるようになり、感覚は麻痺し、退化し、いつしかコースの壁を壁と認識できないようになる。

こうして世界は一つのルールによって「同じ」姿にまとめ上げられていく。

その壁を壊そうというのが、今回ジム・ジャームッシュが『リミッツ・オブ・コントロール』で挑んだ課題である。

注意深く、とまでいかずとも、ある程度集中して観ていれば、この映画に「反復」というものが溢れていることがすぐ分かるだろう。

主人公が毎日歩くルート、主人公の着るスーツ、太極拳風の体操、ベッドの上でのポーズ、2杯のエスプレッソ、次の指令を伝えるマッチ箱、水の入ったグラスとビン、車窓から見える等間隔で並ぶ木、「人生に価値はない」「宇宙に中心はない」などのセリフ……などなど。

以上のようなものが映画の中ではひたすら反復される。

つまり上で言うところのコースの壁が作られていく。

しかし、それらは少しずつ違った表情=差異を見せることで、壊されていく。

スーツの色だけが移動のたびに変わり、最初は2杯分をひとつのカップに入れられていたエスプレッソは最後には口に出して注文せずとも2杯別々で出されるようになる。

誰かが言ったセリフは別の誰かによって再び言われるし、重要なアイテムであるはずのマッチ箱はまったく関係のないシーンで出てきたりもする。

そしてそうしてできた亀裂をさらに広げるように、スローモーションやめまいにも似た画面のゆらぎ、白昼夢のような予期せぬ出来事が観ているこちらに叩きつけられる。

またロケーションも一般的な都市ではない周縁の地域ばかりであり、これもまた都市生活者であるわれわれにとって異化作用をもたらしている。

そもそも主人公の人物造形自体が、現代社会への強烈なアンチテーゼとして機能している。

「携帯は持たず、銃も使わず、仕事中はセックスもしない」というポリシーを彼は持っているが、それはつまり現代社会の象徴であるハリウッド的な想像力の拒否である。

しかし、このような夢想めいた揺さぶりによって壁の向こうを見始めた我々の意識は、劇中何度も不穏な音を立てて現れるヘリコプターによって一気に「現実」に引き戻される。

ヘリコプター=動く最新テクノロジー=国境を侵犯するグローバリゼーション。

再び壁が眼の前にそそり立つ。

やがて物語の終盤、それまで謎に包まれていた主人公の標的を我々は目の当たりにする。

「自分こそ偉大だと思っている男」、それはやはりヘリコプターと共に現れた。

険しい山の中に、武装した警備員と厳重なセキュリティに守られた施設の奥に潜む、一流のビジネスマンといった趣の白人男。

もはや言うまでもないくらい資本主義の象徴としてその男は、敵として存在する。

しかし主人公は「想像力を使って」、その中へ侵入し、こともなげにその男を殺すことに成功する。

だが男は死ぬ間際にこう言う。

「俺が死んだからと言って、何かが変わるわけではない」

そしてその言葉を裏付けるかのように、本編が終わってクレジットが始まった瞬間、あの忌まわしきヘリコプターの爆音がわれわれに襲いかかる。

そうジャームッシュは壁を自分の手で壊しながらも、この瞬間、再び自分で壁を築きなおしたのである。

ここに私はジャームッシュの真摯な誠実さを感じた。

確かに作品の中で壁を壊してみせるのは簡単であり、私たちはそれを見ることでカタルシスを感じる。

しかし、そのカタルシスだけで、何かを成し遂げたかのような気分になってしまう人は多く出るだろう。

現実は何も変わっていないのに。

だからこそジャームッシュは最後の最後で、安易なカタルシスを与えることを避けたのではないだろうか。

クレジットの最後、画面にこんな言葉が出てくる。

「NO LIMIT NO CONTROL」

制約(=壁)のないところに、コントロール(=資本主義社会)はない。

これは管理社会化が日増しに進む現代社会への痛烈なアンチテーゼであり、我々への助言である。

劇中、主人公の歩く足元にアングルを向けたカットがよく出てくる。

つまりこういうことではないだろうか。

「自分の足と想像力で、ここから抜け出してみろ」